平昌五輪HPの世界地図問題と、国家の尊厳

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 平昌五輪HPの世界地図上に、日本が存在しないと話題になっている。そこに悪意があったかどうかはこの際置いておくとして、韓国にとって痛恨のミスであることに間違いはないだろう。
 そう、これは「極めて失礼なミス」であり、恥ずべきことなのだ。

 

 「とんでもないことをしでかす人間」というのは、それが意図的であるかそうでないかに関わらず、どうしても一定数存在する。一時期問題になった、コンビニのアイスコーナーに入った写真をネットに上げる若者や、猫を虐待した動画を嬉々として公開する男など、例を挙げれば限りが無い。そういうものを「今どきの若者は」とか「これだから男は」「これだから女は」とひとくくりにして責める声をよく聞くが、問題はそのような事例が起こったことそのものではない。もっとも注視すべきは、その事例に対する大衆の反応だ。
 例えば日本主催のオリンピックにて日本側が同様の間違いを犯した場合、日本国内ではどのような反応が見られるだろうか。もしそのとき「いい気味だ、よくやった!」という声が国内から多く上がるようであれば、我々は自国の現状を大いに憂い、流れを正していかなければならない。「やってはいけないことだから」ではない。我々自身の尊厳が失われかねないためだ。

 

文明国としての尊厳は、大衆によって守られる

 右左問わず過激派に属する人らは、感覚が麻痺してか或いはわざとなのか、国旗を燃やすだの政治家の顔写真を踏みつけるだの、めちゃくちゃなことをする。彼らは間違いなく「過激派」であり「極端な人たち」だ。その「極端さ」に、多くの中庸な人間、つまり大衆が同意したとき何が起こるか。国家の尊厳の喪失である。
 極端な意見というのは、振りかざすと実に気持ちが良い。それで誰かを攻撃することが出来れば、もうヒーロー気分である。しかしそうして得た「意見を振りかざす気持ち良さ」は、次第に「他者を傷付ける気持ち良さ」にウェイトが偏っていく。その果てに待っているのは、なんでも良いから対象を攻撃したくてたまらないという、文明人としての尊厳を失った、獣としての感性だけである。

 現在、ネット上では「わざとやったんだろう」といった、韓国を責め立てる声が多いように見られる。たとえ韓国側が「わざとではありませんでした」と修正をかけたとしても、納得する人間がどれほどいるだろうか。
 これまでの様々な軋轢を思えば仕方のないことではある。そこに関しては、あえて言うべき言葉は持ち合わせていない。しかし来たる東京オリンピックにて、前述したように日本と韓国が逆の立場となった場合、その時は「なんて恥ずかしいミスをするんだ!韓国に申し訳ない!」といった声を多く聞きたいものである。


 そして今回の騒動でも、せめて韓国国内からそういった声が上がることを期待している。幼稚な悪意、失礼なミスに対して、やんやと喝采を浴びせるような下卑た国にだけはなってはいけない。

小川洋子「ことり」

お題「一気読みした本」

 

 私が本を一気読みするときには、大きく分けてふたつのパターンがある。ひとつは、単純に先が気になる本を読んでいるとき。先が気になるからやめられない。ページをめくる手が止められない。

 もうひとつのパターンは、これが今回紹介する本に当てはまるのだが、本の世界観に没入しすぎて、途中で外界の空気を入れたくないときだ。読むのを中断しようと思えば出来るのだが、「したくない」。出来るだけどっぷりと、物語が終わるまで、この世界観に浸っていたい。そう思わせる本がある。

 

 小川洋子さんの「ことり」を読んだ。この作者で最も有名な作品は「博士の愛した数式」だろうか。私は作曲家の加古隆さんも好きなので、かの作品には愛着があるが、今回は同じ作者と知らずに手に取った「ことり」を紹介したい。

 

当事者になれない孤独感

 「ことり」は、ことりの言葉(作中ではポーポー語と呼ばれている)を話す人間(お兄さん)が主人公、ではない。その弟が主人公となる。弟はポーポー語を理解はできるが、兄のように上手く話すことは出来ない。そういえば「博士の愛した数式」も、素晴らしい数学の才能と特殊な記憶形態を持つ博士ではなく、その周囲の人物が主人公だった。

 私はどうしても、ここに孤独を見出してしまう。主人公はあくまで凡人なのである。特殊な才能を持って浮世離れしているわけではない。しかし特殊な才能を持つ肉親に共感し生涯を分かち合うために、凡人のまま浮世から取り残されてしまう。

 特殊な才能を持つお兄さんは、ある種の神秘性を感じるほどの「美しい存在」として書かれる。我々とは異なる世界の住人なのだ。一方主人公はというと、読んでいるこちらが狼狽してしまうほどに「ただ世間に馴染めないだけの人間」として書かれる。俗世から「あちらの世界」を覗いているだけの、ただの人間だ。この絶望的な差に、親しい人間に置き去りにされてしまったような、何とも言えない孤独を感じてしまうのだ。

  主人公は、決して当事者にはなれない。ことりたちに寄り添うことは出来るが、お兄さんのようにことりの言葉を話すことは出来ない。ゆえに人間の言葉を話し、人間の社会で生きていくほかすべがない。ことりの世界にはどうやっても行けないのだ。しかし、だから人間の社会を上手に飛んでゆけるかと言われるとそうではない。主人公は人間にしてはことりに近すぎるために、人間社会に馴染むこともできない。どこまでも孤独だ。

 

 この物語には、孤独が渦巻いている。そのほとんどが、愛する者との離別からくるものだ。母親、父親、お兄さん、司書の女性、虫箱のおじいさん、鳥小屋……。出会いがあれば別れがあり、別れからくる孤独は出会いによって癒される。しかし初めからそこにあった孤独を癒すには、いったいどうすれば良いのだろうか?

 

 ともすれば主人公は、それを探していたのではないか、と思う。図書館の分室に眠っている数多の本からことりを救いだしながら、彼は自らの内に存在する、どうしようもない孤独を――ことりたちとお兄さんの世界に到達できなかったという、根源的な孤独を、癒そうとしていたのではないか。そう思えてならない。

 その孤独は、別れによってもたらされたものでない以上、出会いによって癒されることは決してない。しかし物語の終盤で書かれるのは、ささやかな「出会い」である。その出会いが主人公にとって出会いのまま終わったのは、幸いというべきなのかもしれない。

 

人生に意味などなく、生命に意義などない

 結局、この主人公の人生っていったいなんだったんだろう。

 読み終わった後でそう考えてしまい、私は虚無感に押しつぶされそうになった。お兄さんの理解者として生きるもお兄さんを理解できないまま喪い、司書の女性に寄せていたささやかな慕情は悪意のないままにあっさりと打ち捨てられ、居心地の良かった職場は時代と経済の波に荒らされ、ことりたちへの純粋な親しみすら「不審者」の一言で片づけられてしまう。

 彼の努力も誠意も報われることはなく、また、彼を蝕むのは明確な悪意などではなく善良な人々の「無関心」と「無神経さ」なのだ。これでは誰かを悪者にすることも出来ない。

 

 人生に意味など無く、生命に異議などないのだろう。「ことり」を読んで、つくづくそう思った。鳥小屋の中で羽ばたきさえずっていたことりたちが、次の朝には落ちて死んでいるように、そこに意味も意義も無い。ただ生きて死んでゆくだけだ。

 この物語が素晴らしいのは、たったそれだけのことを何とも美しく表現しているという点だ。何の意味も意義も持たない存在が――むしろ一般社会においては疎まれ、後ろ指をさされるような存在が、ただ生きて死んでいくだけの過程が、まるで一篇の詩のように美しいのだ。

 

 この物語は語らない。語るというより、ささやかにそっと呟いている。

「人生に意味などなく、生命に異議などない。しかし、それでも人生は、生命は美しい」と。

 

夕闇通り探検隊-花子さんのお墓の噂

「花子さんの噂」はどのタイミングで伝承と都市伝説が融合したか?
 夕闇通り探検隊において、最初に挑む噂が「花子さんの噂」だ。おトイレ軍団という、サンゴいわく「ウチのクラスのガン細胞」から入手することが出来る。
 イケメンの(某少女マンガの登場人物の設定にそっくりな)守護霊を持つ、自称霊感少女イワセユリいわく「この町には花子さんのお墓がある」のだという。詳しい経緯は省くとして、彼女の言っていることは半分(いや、7割くらい)デタラメだが、しかし口からでまかせというわけではない。

 花子さんのものではないし、お墓ですらないが、陽見には「ほこら」がある。イワセユリが初めから「ほこら」を花子さんのお墓として語っていたのか、そもそもイワセユリは「ほこら」を知っていたのかは不明だが、しかし彼女が言う「多摩川近くの十字路で、最初に会った人に話しかける」という行為は、「ほこら」への道しるべとなる。偶然か、必然か。

 

 さて、サブタイトルの「花子さんのお墓の噂」は、どのタイミングで伝承と都市伝説が融合したか?について考えていく。

 伝承というのは、「ほこら」のことである。より詳しく言えば、陽留見の町を護るために人柱となった少女を祀る「姫の社」だ。これは恐らく噂などではなく実際にあった出来事で、バス停で出会うお婆ちゃんが語る、陽留見の史実である。

 一方の都市伝説というのは、花子さんのことだ。これは日本全国に見られる有名な噂だが、イワセユリの「この町には花子さんのお墓がある」という一風変わったアレンジにより、子供じみた「トイレの花子さん」とは一線を画しているように思える。

 「花子さんのお墓の噂」は、花子さんのお墓を探しているうちに「姫の社」に辿り着いたというシナリオになっているが、ここで気になるのが、ふたつのストーリーの奇妙な一致点である。小さな女の子に関する噂であること。お墓・ほこらなど小さな建造物に関する噂であること。十字路が関係していること。この一致点は偶然の産物だろうか?それとも……

 

伝承が呼び寄せたのか、都市伝説がすり寄ったのか

 そもそもを考えるにあたって、イワセユリが「姫の社」を知っていたかどうかが重要なポイントとなる。もし知っていたならば、彼女が花子さんのお墓の話をでっちあげる際に、「姫の社」の噂をベースに作り上げた可能性が濃厚になるためだ。しかし、どうだろう。個人的には、その線は薄いと思っている。

 いまや「姫の社」は取り壊され駐車場になってしまっている。バス停のお婆ちゃん(もしくは、その世代の誰か)くらいしか、かつてあの場所に「ほこら」があったことを知るものはいないのである。では、イワセユリがお婆ちゃん世代の誰かにその話を聞いていた可能性は?……彼女の性格からして、なさそうだ。

 よしんば彼女が隠れたお婆ちゃんっ子で、「姫の社」の話を聞いていたとしよう。それならば、わざわざ花子さんなどという使い古された噂に便乗せずに、そのまま「姫の社」の噂として活用するのではないだろうか。「この町を護るために殺された女の子のお墓」にアレンジ要素を加え、「今は取り壊されたけれど、知らずにその場所に踏み込むと呪われる」とでも言っておけば、噂のインパクトとしては充分である。

 しかし、イワセユリはあくまで「花子さんのお墓」の話しかしない。都市伝説(イワセユリ)が伝承にすり寄った、とは考え難い。

 では、伝承が都市伝説を呼び寄せたのか?

 

陽留見という土地の特殊性とイワセユリ

    陽留見市という土地は(或いはこのゲームの舞台となる世界そのものは)、オカルティックな現象に関して特殊な性質を持っている。すなわち「それを知っている者や信じる者がいる限り、神秘は現実化する」という現象である。言い換えれば、信じる者がいなくなった瞬間に力を喪うわけだが、しかしオカルトを信じる者はどこにでも一定数いるもので、更に言えばクルミやミナミちゃんのように「視る」ことの出来る者もいるわけで、それらの力を借りて現実性を獲得した神秘は、時に神秘を信じない人間すら侵食する。

 「姫の社」は、信じる人間がいなくなれば消滅する儚い存在ではあるが、存在する以上は陽留見を護る神の一柱として大きな力を持つ。それこそゲーム終盤の「夕陽を留める」現象のように。これほどの力を持つ神秘ならば、他愛無い噂に過ぎない「花子さん」を利用して、望む人間(この場合、クルミ)を自分に近づけることも容易だろう。もっとも、「姫の社」が初めからクルミを目的としていたのかは甚だ疑問ではあるが。

 何にせよ、この場合は「伝承が都市伝説を呼び寄せ利用した」と考えるのが妥当であろう。

 そして更にここに加わってくる重大要素が、イワセユリという自称霊感少女の存在だ。彼女は恐らく、いやほぼ確実に「視えて」いない。カッコイイ守護霊に護られていて、みんなには分からない霊的なものを感じ取ることが出来る特別な少女。それがイワセユリの「自分設定」なのだろう。思春期の女の子にはよくある話だ。しかしイワセユリの「ほら話」は、不思議と噂の核心を突いていることが多い。この「花子さんのお墓の噂」もそのひとつだ。

 それはシンクロニシティ(意味のある偶然の一致)なのか?それとも、力を持った神秘が俗世の人間にアプローチする際に、ちょうど都合がいいのがイワセユリというチャンネルなのか?(クルミは、少々神秘寄り過ぎるのかもしれない)

 きっと後者だ、と私は思う。イワセユリが噂を運んでくるタイミングにしても内容の深度にしても、偶然の一致とするにはあまりに都合がいい。恐らくイワセユリは、彼女が嘘をつかなくとも、ある程度「感じる力」はあるのだろう。クルミやミナミちゃんのようにハッキリと視ることは出来なくとも、少なくともごくごく小さなタマムシを、その眼の奥に飼っているはずだ。

 しかしそれはあまりに小さいがために周囲も、彼女自身も気付くことはない。さらに彼女は「普通」を捨てきれなかった。あくまで周囲に馴染める「普通」でありながら、周囲とは違う「特別」になりたいと願った。「俗世を捨てられない身の振り方」が、彼女の「視る」力におかしなフィルターを掛けてしまったに違いない。そのフィルターは、微弱ながら彼女に届いていた「姫の社」の声を、頭の中で、陳腐な「花子さん」の噂に作り替えてしまう。

 それでもイワセユリの言葉は、主人公一行を、あの神秘の十字路へとくのである。

 

そして噂が生まれる

 こうして整理していくと、気付くことがある。「花子さんの噂」と「姫の社」を結び付けたのは、イワセユリでもカスカでもなく、ほかでもないナオたちなのだ。イワセユリは、「姫の社」のことなど知らず、ただ彼女の頭の中で(第六感的何かが介入していたとしても)勝手に「花子さんのお墓の噂」を作り上げた。そこを起点としてナオたちが「探検」した結果、姫の社にたどり着いた。ふたつのものがひとつに融合する瞬間。夕闇通りの世界では、噂は噂されるほど力を持つ。とすると、あるいは「姫の社」はこれが目的だったのかとも考えられる。

 先ほど、「姫の社が最初からクルミを目的としていたかは疑問だ」と述べたが、そもそも姫の社、もといカスカは、始めはクルミを試すような言動をしている。隠れんぼをすると途中で消えてしまったり、許してあげる、といった発言をしたり。

 人面ガラスの呪いに掛かったクルミに興味を持ったのは事実だろう。しかし初めからクルミをおびき出したというより、おびき出した相手がたまたまクルミだったという方が正しいような気がする。そこでカスカはクルミに目をつけるのだ。

 カスカがイワセユリを、「花子さんの噂」を利用し、クルミと出会ったのは全くの偶然なのだ。本来の目的は、「花子さんのお墓の噂」と自分の「姫の社」とを融合させ、ひとつの噂として大きくすることだったのではないだろうか?

 

 カスカは、消滅の危機にあった。陽留見のためにも、少しでも長く存在する必要があっただろう。だから、噂として大きくなろうと画策した。現代の子供たちにまことしやかに囁かれる噂。そんな噂のひとつになれば、かつての神としての力とまではいかなくとも、陽留見を護る神秘として多少は生きながらえるかもしれない。そう考えたのではないか。

 そこに現れたクルミという少女に、カスカはまたとない希望を見出すのだが……。

 

 

 「花子さんのお墓の噂」の最後では、バス停のお婆ちゃんはクルミに意味深な言葉を残す。「あなたなら、きっとまた会えますよ」と。

 誰が、何を、どこまで知っているのか?あるいは、感じているのか?それが謎なのが「夕闇通り探検隊」の魅力ではあるが、お婆ちゃんにも、「姫の社」の声は届いていたのだろうか?

 

スナカワサエというキャラクターの悲哀

 夕闇通り探検隊に、スナカワさんというキャラクターが登場する。クルミのクラスの委員長であり、生真面目で口うるさい。細かな規則も守ろうとし、自分と同じレベルの規律を同級生にも求めるため、クラスの女の子たちには疎ましがられている。そんな存在だ。


 私はスナカワさんというキャラクターは、夕闇通り探検隊においてかなり重要なポジションなのではないかと考えている。
 スナカワさんは、「歪んでいない者が疎まれる」という夕闇通り探検隊におけるルールを示すキャラである。このルールを最も分かりやすく示しているのは、言うまでもなくクルミだ。クルミは人間社会において重要な「取り繕う」という行為が出来ない。あまりにも純粋すぎるがために周りに疎まれ宇宙人だと蔑まれる。一部の人間はその純粋さに惹かれていたり、彼女のあり方こそ自然なものなのだと気付いてはいるが、クルミは基本的に孤独である。


 スナカワさんも、クルミと同じだ。人間社会に適応こそしているものの、あまりに歪んでいなさ過ぎて疎まれる。正直に言って人間社会では、少しの悪事には目をつぶったり許容するくらいの「取り繕い」が求められる。しかし、その心の歪みのなさゆえに、「規則を守りましょう」「誠実に行きましょう」という大人の言葉に「そうは言っても」と思えなかったスナカワさんは、教えられたことと現実との差異に苦しむこととなる。正しいことをしている、言っているはずなのになぜ自分が責められるのか?その苦しみは、スナカワさんの精神を蝕むこととなる。


 そんなスナカワさんに、無意識に共感していたのか、はたまた彼女の無邪気さゆえか、クルミは何度もスナカワさんに小言を言われているにも関わらず、サエちゃんサエちゃんと言ってスナカワさんに懐く。またスナカワさんも、クルミのだらしなさに口を出すことはあっても、変人だとか話がかみ合わないとかいう理由でクルミを遠ざけることはない。クルミに接するときに態度を変えない人物。スナカワサエは、どこまでも純粋で「正しい」のだ。


 しかしゲーム本編が夏を迎えるころには、その正しさにも影が落ち始める。
 ゲーム終盤で、スナカワさんの手首には痛々しい包帯が巻かれている。プールサイドの片隅に、死人のような表情で座って見学しているスナカワさんは、いつか彼女が思い描いた「正しい自分の姿」とはかけ離れているように思える。彼女の精神は、理想と現実との乖離に耐えられなくなってしまった。そして、そんな苦痛に負けて自分を傷つけるようになった自分すらも「正しくない姿だ」と彼女を責めるのだろう。


 プールの更衣室でおトイレ軍団が「私たちのせいじゃない」と責任を逃れる発現をしているが、あながち間違ってはいないかもしれない。悲しいことではあるが、たとえおトイレ軍団がスナカワさんに嫌がらせをしなかったとしても、スナカワさんの精神はいずれ現実の重みに耐えられなくなったことだろう。


 ゲームが終わったあと、スナカワさんはいったいどうなったのだろうか。孤独に耐えながら、自分の心をすり減らしながら「正しさを守る」戦いを続けていた。しかしその心は折れかけ、唯一自分を疎ましがらなかった、サエちゃんサエちゃんと慕ってくれていた女の子は死んだ。


 「サエちゃん」の心は、どんなに引き裂かれただろうか。もし夕闇通り探検隊の先を見られるとしたら、私はスナカワさんの後日談を覗いてみたい。そして願わくは、スナカワサエの隣に、彼女の痛みを和らげる誰かがいてほしいと願うのである。

 

夕闇通り探検隊はなぜ調査隊でなく探検隊なのか

 夕闇通り探検隊というゲームがある。1999年にSpikeより発売された、知る人ぞ知る名作ゲームだ。
 ストーリーは大まかに言うとこうだ。


 メインの登場人物はナオキ、サンゴ、クルミの中学生三人組。ナオキだけ男の子で、あとの二人は女の子だ。この三人が、ナオキの飼い犬である雑種犬メロスを引き連れて、三人の住む町の不可思議な噂を調べていく。


 プレイすれば(或いは、プレイ動画か何かでも見れば)分かるが、このゲームは元気な中学生が怖い噂に挑む!といった前向きな話ではない。むしろ噂に踊らされたり、噂が元で人間関係や精神が不安定になったり、とにかく陰鬱としていて、私たちが普段の生活で感じがちな妬み、嫉み、劣等感といった負の側面を浮き彫りにする、どこか後ろ暗い気持ちになるゲームだ。(もちろん、それだけでは決してない)


 さて、このゲームのタイトルは「夕闇通り探検隊」だが、私はひとつ不思議に思うことがある。このゲームは、中学生三人組が噂の真偽を確かめようとする、いわば「調査する」ゲームだ。ではなぜ、「夕闇通り調査隊」ではなく「夕闇通り探検隊」なのか。語感が良いとか探検の方がカッコいいとか、メタな意見は置いておいて考えてみようと思う。

 

 

言葉としての探検
 まずは、goo辞書さんの力を借りて、ふたつの単語の意味を調べてみる。
【調査】は、物事の実態・動向などを明確にするために調べること。
 一方【探検】は、危険を冒して未知の地域に入り、実地に調べること。とある。なるぼど、噂を調べるという点のみに焦点を絞れば「調査」だが、噂を調べるために未知の領域に踏み込み危険を冒すという点に目を向ければ「探検」だ。


 では、いったい彼らにとってなにが「未知」であり「危険」なのか?舞台は基本的に、彼らが生まれ育った街、陽見市である。立ち入り禁止の廃墟や、時々発生する異次元イベント以外では、これといって「未知の土地」に踏み込むような描写はない。彼らが通う学校や、街の一角が舞台なのである。また、「危険」に関しても同じように、霊的なイベントで危険にさらされることはあるが即死イベントのようなものはないし、どちらかというと危険より不愉快な気持ちになったり、何とも言えない嫌な気分になったりすることの方が多い。


 では「探検」を指し示す「未知」と「危険」は、何を指しているのだろうか?

 

 

彼らの世界における未知と危険
 夕闇通り探検隊では、人間の悪意も心霊現象と同じ恐るべきものとして扱われる。主人公一行は、噂を調査する過程で様々な悪意や、人間の汚い部分を目の当たりにする。嫉妬や猜疑心、奇異なものを攻撃し追放しようとする嗜虐心や、男性の性欲といったものもそのうちに入る。中学生といえば、そういったものに最も敏感な年頃だ。潔癖すぎるものは理想の世界と現実の世界との差異に苦しみ、捻くれたものは、やっぱり世界なんてこんなものなのねと絶望をあらわにする。主人公一行も例外でなく、世界の汚い側面にそれぞれ様々なリアクションを見せる。そして内面は徐々に影響を受け始め、それに伴って言動にも変化が見え始める。


 これこそが「探検」なのだ。住み慣れた街を走り回るのは、探検ではなく「調査」だ。主人公たちが「探検」するのは、人間社会の淀みの中であり、自分たちの深層心理の中なのだ。


 社会に潜む悪意を軽蔑したはいいが、それと同じものが自分の中にも潜んでいることに気が付く。そしてそれを嫌悪しながらも、そっと自分の心中を覗きこみ、それの正体を探ろうとする。ともすれば、自分自身の汚さに呑まれてしまいかねないその行為、「自己分析」こそ、夕闇通り探検隊における「未知」であり「危険」なのだ。


 夕闇通り探検隊は、人間の精神を「探検する」ゲームなのである。

 

このブログについて

さて、このたびブログを開設したわけだが、もちろん最初から読者がつくとは思っていないし、そもそも私自身、このブログをどういう方向へ持っていきたいのか何も考えていない。

何も。本当に何のアイデアもない。

人さまに話して楽しいような趣味があれば、それについて書くのもいいのだろうが、残念ながら私の趣味はいわゆるオタク系というものであって、なんというか、ちょっと恥ずかしい。

オタク趣味をオープンにしている人が恥ずかしいと言いたいのではない。単純に、私が「他人からどのような評価を受けているのか気になるタチ」なのだ。そこをご理解いただきたい。

 

と、このように炎上を回避するような一文を付け加えてみたところで、どうせ炎上するほど読まれないし気にすることはないのだ。

しかし、そういう油断を持ったままブログなんかをやり始めると、必ずプチ炎上する。私は詳しいんだ。そういうの。

 

話がそれたが、とにかく私は今のところ、このブログをどうするといったビジョンを全く持っていない。

だから作った料理の話をするかもしれないし、読んだ本の話をするかもしれないし、近所の猫の話をするかもしれない。方針が決まったら、さも「最初からこういうブログにするつもりでしたよ」みたいな顔をし始めるかもしれない。

そういうことをしながら、何となく誰かの目につくようになればいいなと思う。