平昌五輪HPの世界地図問題と、国家の尊厳

www.sankei.com

 平昌五輪HPの世界地図上に、日本が存在しないと話題になっている。そこに悪意があったかどうかはこの際置いておくとして、韓国にとって痛恨のミスであることに間違いはないだろう。
 そう、これは「極めて失礼なミス」であり、恥ずべきことなのだ。

 

 「とんでもないことをしでかす人間」というのは、それが意図的であるかそうでないかに関わらず、どうしても一定数存在する。一時期問題になった、コンビニのアイスコーナーに入った写真をネットに上げる若者や、猫を虐待した動画を嬉々として公開する男など、例を挙げれば限りが無い。そういうものを「今どきの若者は」とか「これだから男は」「これだから女は」とひとくくりにして責める声をよく聞くが、問題はそのような事例が起こったことそのものではない。もっとも注視すべきは、その事例に対する大衆の反応だ。
 例えば日本主催のオリンピックにて日本側が同様の間違いを犯した場合、日本国内ではどのような反応が見られるだろうか。もしそのとき「いい気味だ、よくやった!」という声が国内から多く上がるようであれば、我々は自国の現状を大いに憂い、流れを正していかなければならない。「やってはいけないことだから」ではない。我々自身の尊厳が失われかねないためだ。

 

文明国としての尊厳は、大衆によって守られる

 右左問わず過激派に属する人らは、感覚が麻痺してか或いはわざとなのか、国旗を燃やすだの政治家の顔写真を踏みつけるだの、めちゃくちゃなことをする。彼らは間違いなく「過激派」であり「極端な人たち」だ。その「極端さ」に、多くの中庸な人間、つまり大衆が同意したとき何が起こるか。国家の尊厳の喪失である。
 極端な意見というのは、振りかざすと実に気持ちが良い。それで誰かを攻撃することが出来れば、もうヒーロー気分である。しかしそうして得た「意見を振りかざす気持ち良さ」は、次第に「他者を傷付ける気持ち良さ」にウェイトが偏っていく。その果てに待っているのは、なんでも良いから対象を攻撃したくてたまらないという、文明人としての尊厳を失った、獣としての感性だけである。

 現在、ネット上では「わざとやったんだろう」といった、韓国を責め立てる声が多いように見られる。たとえ韓国側が「わざとではありませんでした」と修正をかけたとしても、納得する人間がどれほどいるだろうか。
 これまでの様々な軋轢を思えば仕方のないことではある。そこに関しては、あえて言うべき言葉は持ち合わせていない。しかし来たる東京オリンピックにて、前述したように日本と韓国が逆の立場となった場合、その時は「なんて恥ずかしいミスをするんだ!韓国に申し訳ない!」といった声を多く聞きたいものである。


 そして今回の騒動でも、せめて韓国国内からそういった声が上がることを期待している。幼稚な悪意、失礼なミスに対して、やんやと喝采を浴びせるような下卑た国にだけはなってはいけない。